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3日目(1999年11月21日日曜日)

痛い。
2等部屋のカーペットは腰に相当の負担をかけたらしい。
寝覚めは最悪だった。
相当乾燥しているにも関わらず、ジーパンもスニーカーも乾いていない。
でも、腰は痛い。
朝飯はカップヌ○ドルカレー味にした。
それでもまだ、6つもカップ麺が残っている。
一体どうするのだろう。

昨日のショックからいまだ立ち直ることができず、午前中は寝て過ごした。
と、そのとき船内アナウンスが流れてきた。
「午後1時よりブリッジ見学を行います。」
ブルーな気分の自分にとって、ちょっとときめくアナウンスだ。
微妙な気持ちのまま、そそくさと仕度を始めた。
やっぱりカメラでしょ、と思って手にしたときにいやーな感じがした。
手にもった感触が変だ。
カメラをよくよくみると、角にしっかり傷がついている。
なんとなく継目も広がっているようだ。
右上顔面に縦線が数本走った。
何がそんなにショックって、このカメラは借り物なのだ。
彼女の怒りの形相が浮んだ。
しかし、とりあえずズームも動くので、機能的には問題ないだろう。
ブルー&ブルーなまま、集合場所のロビーにむかった。

ロビーには10数人が集まっていた。
暇なフェリーの中ではこれくらいしか楽しみはないのだ。
狭い階段を登ってブリッジに入る。
天気がいいので遠くまでよく見渡せる。
こぶとりの船長が説明を始めた。
皆なかなか真剣にきいている。
しかも、船長も慣れているのか、なかなかテンポのよいトークを展開するので、 写真を一緒に撮ったりしっかり人気者になっている。
いろいろ話をききながら写真を数枚とった。
果して無事撮れているのかどうかは不安だが。
カメラが壊れていないことだけを祈った。

ブリッジ見学で少し憂鬱な気分も晴れ、天気もよかったので甲板をうろうろし た(ような気がする)。
その後、部屋に戻ったが心なしかドブ臭い気がした。
腰もだんだん痛くなってきたので、また寝ることにした。
陸に上がるまで、もう少しの辛抱だ。

午後6時30分(時刻表の通りだとすると)、ついに九州に到着した。
やっぱり暗い。
真っ暗である。
タクシーが数台止まってはいたが、そんな余裕があるはずもなく、トラックが 走りさる方向へと歩き始めた。
しかし、行けども行けども闇。
道路だけはやたらと広いが、流通センターのような建物ばかりで人っ子一人見 当たらない。
腰は痛いし、荷物は重い。
おまけに、何故か蜘蛛の巣が頭に絡まったらしく、気持ち悪い。
こんなことなら、けちけちせずにタクシーに乗ればよかった、と思っていた矢 先、街の明かりが見えてきた。
行き着いた先には、高速道路らしい高架と、跨線橋がそびえ立っていた。
しばらく悩んだ末、跨線橋を渡ることに決めた。
痛めた腰には坂道はきつい。
しかし、この橋の向こうに希望があるはずだと思いながら歩いた。

希望はあった。
明るく輝く本屋の看板。
街だ。
思わず、痛みも忘れ小走りになる。
下り坂を一気に降りると、本屋に駆け込んだ。
迷わず、地図のコーナーに向かう。
しかし、ここでまたけちけち根性が頭をもたげてきた。
買わずに覚える。
これがまた悲劇を呼んでいたとは当時は知る由もなかった。
なんとなく、宿のある博多駅の方向がわかったので、最寄りの駅を探した。
だが、博多駅を目標にしたためか、その方向にしか目は向いていなかったらし い。
博田駅は南西にあった。
「南西に進路を取れ!」
この結果、地下鉄まるまる一駅分、無駄に歩いてしまった事実に気づいたのは、 2001年4月4日のことだった。(地図)

長い旅路の後、無事地下鉄に乗り込んだ私は、博多駅でゆずもどきの洗礼を受け、 博多ラーメンの白さに驚き、辛し高菜の入れ過ぎに後悔した。
こうして、宿泊先である博多パークホテル
(といっても、北海道に点在するパークホテルとは雲泥の差)
に辿り着いたのは、夜も随分更けた頃だった(はず)。
疲労のため、熟睡(だったと思う)。


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